一昨日の豊作

 で、まず何を書こうかと思ったんですが、一昨日久しぶりに博多駅のBOOKOFに寄りまして大量(と言うほどでもないか)文庫を買ってきましたのでまずはそれの紹介から。(しかし、やはり僕の趣味に一番合うのは博多駅のBOOKOFですな。狙ったものがそこにある。)

 買った本のリストは以下の通り

鈴木清剛ラジオ・デイズ河出書房新社 2000
島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』福武書店 1985
栗本薫『ぼくらの時代』講談社 1980
村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)(下)』新潮社 1988
村上龍コインロッカー・ベイビーズ (下) 』講談社 1984
橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ〈上〉 』河出書房新社 1995
小松左京日本沈没(下)』文春文庫 1978

出海まこと『邪神ハンター2』青心社 1998
小川一水導きの星〈3〉災いの空』角川春樹事務所 2003
桜庭一樹GOSICK〈2〉ゴシック・その罪は名もなき 』富士見書房 2004
おかゆまさき撲殺天使ドクロちゃんメディアワークス 2003
桑島由一神様家族メディアファクトリー 2003

 はい、以上です。
 見事な乱読振りです。
 あきれます。

 基本的には前半が昨年来関心のある1980-90年代の純文学(とされるもの、主に文学賞をとった人の作品を僕は指します)、後半が見ての通り最近注目の(一つ違いますが)ラノベです。

 一つずつ紹介や感想を書いては大変なので、とりあえず前半の傾向のものを何故読むようになったかという話から(いや、もう後半は説明不要ということで)。最初は「いや、純文学って面白いの?」という不純な(?)動機からでした。

 ラノベは昔から読んでたんですが、最近「純文学のエンターテイメント化」(石川忠司)が進んでいると言われ、ラノベに(過剰な)期待が集まってるんですが、じゃ、そもそも文学(なるもの)、それもいわゆる古典ではなく、また大江健三郎中上健次ら戦後派でもない、ここ数十年の作品はどうなんだろうか、といったものでした。

 もちろんこの時点で「文学」という言葉に逆に捕らわれてることは自覚してます。先のリストの後半を選ぶのに参考にした先月発売の『STUDIO VOICE』3月号の特集「今最も面白い小説150冊!」では「我々は今、ただひたすら“面白さ”だけを基準に小説を読める時代に生きているのである」と書かれ、いまや文学もラノベもいろんな意味での「消費物」としては一緒で、逆に区分にこだわる方が「文学」をそれこそかっこづきにしてしまってるかもしれません。

 が、逆にそこで問われる「面白さ」とは何なのかに興味があるわけで。以前から僕はどうやって小説は僕達の手元にやってくるのか?なぜ僕達は小説を読むのかに関心があって。それは作者の筆力なのか、出版社の戦略なのか、それとも僕達の願望からなのか、答えの出ない問いを考えてるわけです。

 例えば、80年代の(文学の)作品は男性主体で「洋楽(主にロック)と酒とタバコとセックス」ってのが多いんですが、確かにそれはたぶん当時の「サブカル」であって、まさにそれが文学の中に入ってきたから新しかったんでしょう。また90年に入り「J文学」なんて言われだすと、(今回買った本には入ってませんが)今度は女性が目立ち始め、社会(世界)との違和感を売春や自傷などで描いていく。

 こうした「サブカル」の取り込みは同時に、その時代の読者には共感を生み、その作品の魅力となり、ひいては「面白さ」の要因でしょう。しかし、それが単なるエンターテイメント系の小説と違うのか、「違う」というならいったい何が違うのか、それが文学を文学たらしめてるものとされるならそれは何なのか、それとも、そうした時代を切り取る力が文学なのか、それなら他の小説と何が違うのか。そしてそこに、それこそどんな「面白さ」があるのか。そこで、まずは読んでみることで、その面白さを感じてみるのが先決かと。その延長線上に果たして金原ひとみ綿矢りさがいるのか、それとも乙一佐藤友哉がいるのかはまだ分かりませんが…。

 なんだか堂々巡りでいまだ答えは見えてきませんが、いましばらく、積読状態にある文庫をまったりと読みながら考えていきたいもんです。また、今後はこんな大雑把なものでなく、一作品を取り上げて感想を書いていきます。