三崎亜記『となり町戦争』集英社2005 

となり町戦争

となり町戦争

 リアルな「戦争」、もうその言葉自体がどこかフェイクじみた響きを醸し出しますが、この小説はまさにいまここにいる私たちにとっての戦争について考えさせられる作品です

 ある日、主人公の「僕」は町内広報にて「となり町との戦争がはじまる」ことを知り、さらに「僕」は町役場から戦時特別偵察業務従事者、つまりは敵地偵察を任じられる。音も光も気配も感じられず、ただ広報紙上の町政概況の「死亡者(その内戦死者)」の数だけが増えていく。戦時下の実感を持てないまま、「僕」は敵地にて「となり町戦争推進室」の香西さんと奇妙な同棲生活を続けていく…。

 この小説の中にはいくつかの場面を除いて戦争を表す要素は出てきませんし、その数少ない場面でさえ、結局主人公の面前に明確な形での戦争の災禍は現れません。それどころか戦争は町の行政として進んでいきます。しかし、逆にその言いようのなく巻き込まれていく様子が淡々としたした文章とひたすら受動的な主人公の下描かれている作品です。

 「僕」にとっては「この複雑化した社会の中で、戦争は、絶対悪としてでもなく、美化された形でもない、まったく違う形を持ち出したのではないか。実際の戦争は、予想しえないさまざまな形で僕たちを巻き込み、取り込んでいくのではないか。その時僕達は、はたして戦争にNOと言えるのあろうか。自信がない」。
 
 まさに現在の日本のメディアを通じてしか戦争に触れる事のない、しかし厳然と「戦時下」にある状況を示しているんですが、興味深かったのがこの作品に対するAmazonのカスタマーレヴュー。そのほとんどが、この小説を「戦争の実態が描かれてなくて面白くない」とレヴューしています。例えば以下のように。「ところが半分読んでも、隣町との何の戦争なのか理解できなかった」。そう、確かに分からないのです。「僕」は戦争が始まっても平然ととなり町を通って職場に通い、となり町にて普段と変わらぬ生活を送ります。広報と戦争推進室を通してしか戦争が展開していくことを実感できずに知るだけです。そこには戦争の倫理も意味もない。あるのはただ制度(=政治)として展開する「戦争」だけです。問題はまさにその「実態の描かれない戦争」こそが今、私たちの目の前に、いやその身を覆おうとしているのではないか、というリアリティではないでしょうか。

 しかし、するとレヴューした人々は何に違和感を抱いたのか、と考えていると、ふと思ったことが。少し唐突ですが、最近昭和40年代生まれの、いわゆるオタク第二世代による戦争を描いた映像作品が目立ってきているという指摘を思い出しました*1。その代表が「亡国のイージス」「ローレライ」で有名な福井晴敏です。この世代は彼を代表として、第二次世界大戦を幼少期に経験した世代の作品(代表作は『機動戦士ガンダム』)を見て戦争を学んだ世代で、この世代にとって戦争とはアニメとテレビでの米ソ冷戦のニュースであったのです。

 同様に、この世代より少し下の世代が描くセカイ系とよばれる作品群においても戦争は重要な要素となります。その中でも、例えば秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』や高橋しん最終兵器彼女』はその背後に冷戦を思わせる設定が特徴的です。そう、今注目の作家達の背景には昭和40〜50年代に強固に植えつけられた冷戦による国家総力戦のイメージを前提としていて、しかも、されはこうしたサブカルだけでなく、いまだ多くの日本人が抱いている「戦争」のイメージと重なるのではないでしょうか。

 そうした視点からはこの『となり町戦争』は確かにつまらないものでしょう。しかし、著者の三崎亜記は同じセカイ系的な設定でありながら(「僕」は戦争のリアリティを結局香西さんからしか感じ取れない)、新たな戦争が始まっていることを示しています。面白いのは、実はこうした新たな戦争(ここでは、テロ対策を代表とする高度なセキュリティ戦とメディアを通しての非身体的な戦争のこと)をすでに日本のアニメというサブカルの一端が1990年代半ばに映像化しているということです。すなわち対テロ舞台の活躍を描く『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』と「虚構の中の戦争」を描いた『劇場版パトレイバー2』という2本の押井作品。なぜ、こうした事が起きたのか。それは押井監督という特質なのか、それともアニメというメディアが持つ虚構との親和性故なのかはまだ分かりませんが。とはいえ、いわば、『となり町戦争』はこうしたテーマを高質な散文性で描き通したところにその重要さがあるように思えます。

 ただ、読後にはある違和感が残りました。以下はネタバレになるので注にしときました。ぜひ作品を読んでから確認して下さい。*2

*1:加野瀬未友「身体的戦争とバーチャルな戦争の狭間で――昭和40年代生まれが描く「戦争」――」『Natural Color Majestic-12』(同人誌)2005

*2:しかし、こうしたリアリティを担保する存在として、最終的に「僕」は「失うことの痛み」に耐え続けます。あらゆる情報が押し寄せては流れ去る中、人との繋がりの中で決して他人と共有することのない「痛み」、しかもそれは自身についてのみでなく、共有することのできない他者の痛みを含めて。問題はこの後、僕が自分の存在を再び確認するのが、戦争を「「なかったこと」なのだ。それは現実逃避とも、責任転嫁とも違う。僕を中心とした僕の世界の中においては、戦争は始まってもいなければ、終わってもいないのだ」としてしまったこと。このセカイ系を一歩進めてヘイサ系とも呼べる個人の閉塞的な世界認識を前提とした終り方にはさすがに釈然としないものを感じます。そこがセカイ系、いや、新たな戦争を描くことの限界なのでしょうか。